(続)三宮神社略史

この地は以前尼崎藩領であったため藩公が厚く信仰せられ 寛延の石灯籠は尼崎藩主の奉納になったものと伝えている。明治維新ごろまでは神社の附近は山手まで一面田園に過ぎず 神社はその中に西国街道に添うて 丘を負い うっそうと繁った森をなし遠方からもよく望めて目標となっていた。

そのころ神社の前にはアヤメを植え 花時には旅人の憩いの場所となり 西には須磨の前田邸のカキツバタが有名で 道中の雲助歌にも「咲いてしおれてまた咲く花は、須磨の前田のかきつばた」とうたわれていたのに対して 東の三宮神社のアヤメも近在だけでなく遠来の旅人にも親しまれていた。神社の境内には 古くから清水のこんこんと湧き出る井戸があって神戸の港へ出入りの船は 必ず神社へ参拝してこの水を汲み取って航海中の飲料水として用いるので大切がられていた。

どこでも古くからの船着場には良水があることが条件となっていたがここもその1つであった。当社の神官は代々世襲であるが 現在の宮司の姓が清水氏であるのも 先祖がこの井戸の清水から命名されたのである。慶応3年12月7日(1868年1月1日)神社前の神戸の浦が開港され 居留地が設定されることになって その工事用に神社附近の丘を削って 土を運ぶなどして昔の景観を失い 明治18年までは まだ数株の老松が残っていたが 次第に周辺はひらけ おいおい人家や商家が建ち並び ついには今日見るように異常な発展を遂げることになり 三宮の名は駅名や官公署や会社、銀行、商店名につけられて全国に知られるようになった。

神社は今次の大東亜戦争による戦禍をうけ またそれに関連する都市計画によって 神域はせばめられるの余儀なきに至った。三方に大道路が通じる位置になったのを機会に境内の整備と本殿、拝殿、社務所の復興造営を 竟へ面目を一新崇高なる唯一の信仰地となる。その後 平成7年1月17日未明の阪神淡路大地震の災禍をうけたが さらに復興整備が行われ今日に至る。

境内に祀る末社の三宮稲荷と安高稲荷大明神は古くから霊験あらたかとして信仰され 各地からの信者の参詣を始め 京都大阪方面から子孫代々にわたり 今なお月参りをされる熱心な信者もあって 戦後いち早く篤志家の寄進によって復興されて いよいよ神徳が崇められている。

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(続)神戸事件概略

300年近くも続いた徳川幕府も時勢の流れに抗し得ず ついに慶応3年10月14日大政奉還を申し出た。その原因の1つに神戸開港の難問題があったことは知っておくべきであろう。
ついで同12月9日皇政復古の大令は発せられたが実力はまだ朝廷に備わらず 前将軍慶喜はなお大勢力を握っていて徳川方大名の向背。殊に近畿のそれは朝廷の最も警戒するところであった。果して翌明治元年正月3日に鳥羽伏見の変が起った。これより先 朝廷は徳川親藩の尼崎の押えとして 備前藩を西宮へ警備のため出張を命じた。備前藩では明治元年正月元旦から5日にわたり約2000の兵を進発せしめた。その内4日に岡山を発った家老日置刀帯忠尚のひきいる約500の一隊が11日午後1時頃 三宮神社前に進んだ時 突然外国人が行列を横断しようとしたので 無礼を怒った藩士が その外国人を傷けたのがもとで 当時港に碇泊中の米、英、仏、伊、和、普の外国軍艦の 陸戦隊と銃火を交える騒ぎとなった。事の拡大を恐れた備前兵は機を見て早々に過ぎ去ったのち 神戸は外国人のために完全に 占領されるに至り国難来を思わせた。神戸の町民は極度の不安にかられ 家を捨てて野山に逃れた。

同15日に東久世通禧を勅使とする一行は 明治天皇の宣言書を捧げて6ケ国代表と 神戸運上所(のちの神戸税関)で会見して 始めて天皇親政になっていることを外国へ伝えた。この宣言書には国璽が用いられていた。日本開闢以来 外交上の文書に国璽を用いられたのは これが最初の重大事実であり 正に日本外交史の第1頁を飾るものである。しかもこれが神戸運上所においてのことであることは銘記さるべきである。

そして談判の結果 この事件の発砲責任者を各国士官立ち会いの面前で 死刑に処すべしとの 要求を受けた。当時われにこれを拒む力を持たなかった。天皇も御心を悩まされたが ついに命を奉じて 備前藩士 滝善三郎正信は責を一身に負い兵庫永福寺で見事な切腹をして事件は落着をみた。正信の犠牲は日本を植民地化せず 神戸を第2の上海、香港たらしめずに済んだ。幕末より明治の初めにかけて外交上の難関は多かったが この事件ほど外交史上に重大性を帯びて その推移に興味ある事件はけだし稀であろう。
この事件は、三宮神社前で起こったので 始めは三宮事件と称せられていたが 後に「神戸事件」と改めたのである。

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