300年近くも続いた徳川幕府も時勢の流れに抗し得ず ついに慶応3年10月14日大政奉還を申し出た。その原因の1つに神戸開港の難問題があったことは知っておくべきであろう。
ついで同12月9日皇政復古の大令は発せられたが実力はまだ朝廷に備わらず 前将軍慶喜はなお大勢力を握っていて徳川方大名の向背。殊に近畿のそれは朝廷の最も警戒するところであった。果して翌明治元年正月3日に鳥羽伏見の変が起った。これより先 朝廷は徳川親藩の尼崎の押えとして 備前藩を西宮へ警備のため出張を命じた。備前藩では明治元年正月元旦から5日にわたり約2000の兵を進発せしめた。その内4日に岡山を発った家老日置刀帯忠尚のひきいる約500の一隊が11日午後1時頃 三宮神社前に進んだ時 突然外国人が行列を横断しようとしたので 無礼を怒った藩士が その外国人を傷けたのがもとで 当時港に碇泊中の米、英、仏、伊、和、普の外国軍艦の 陸戦隊と銃火を交える騒ぎとなった。事の拡大を恐れた備前兵は機を見て早々に過ぎ去ったのち 神戸は外国人のために完全に 占領されるに至り国難来を思わせた。神戸の町民は極度の不安にかられ 家を捨てて野山に逃れた。
同15日に東久世通禧を勅使とする一行は 明治天皇の宣言書を捧げて6ケ国代表と 神戸運上所(のちの神戸税関)で会見して 始めて天皇親政になっていることを外国へ伝えた。この宣言書には国璽が用いられていた。日本開闢以来 外交上の文書に国璽を用いられたのは これが最初の重大事実であり 正に日本外交史の第1頁を飾るものである。しかもこれが神戸運上所においてのことであることは銘記さるべきである。
そして談判の結果 この事件の発砲責任者を各国士官立ち会いの面前で 死刑に処すべしとの 要求を受けた。当時われにこれを拒む力を持たなかった。天皇も御心を悩まされたが ついに命を奉じて 備前藩士 滝善三郎正信は責を一身に負い兵庫永福寺で見事な切腹をして事件は落着をみた。正信の犠牲は日本を植民地化せず 神戸を第2の上海、香港たらしめずに済んだ。幕末より明治の初めにかけて外交上の難関は多かったが この事件ほど外交史上に重大性を帯びて その推移に興味ある事件はけだし稀であろう。
この事件は、三宮神社前で起こったので 始めは三宮事件と称せられていたが 後に「神戸事件」と改めたのである。